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六〇年代のハルマゲドン

−UFO教団CBAの興亡―
思いがけない再会

 それは今から七、八年前、ぼくがまだ駆け出しのライターだったころの話である。ワープロ関係のPR誌の仕事で神戸在住の漢方医を取材することになった。その人物は名をH氏と言い、ワープロをUFO研究に利用しているとのことだった。
 当時、ワープロは一般に普及し始めたばかりで、最先端のハイテク機器というイメージがまだ残っていた。それをUFO研究に利用するのはなかなかしゃれていると思い、以前からUFOに多少興味があったこともあって、引き受けることにした。ただ、ぼくの知っているUFO研究者にHという名はなかった。
 診療所を兼ねた自宅でお会いしたH氏は、六十歳前後の温厚な雰囲気の人物だったが、話は初めから妙な雲行きになった。こちらがいくら質問しても先方はなにか上の空で、ろくに答えてくれない。と思っていたら、あらかじめ用意していたとおぼしき印刷物を取り出して勝手に説明を始めたのである。
 初めは、なにを言っているのかよくわからなかったが、そのうちに内容がつかめてきた。どうやら氏は日本には昔からUFOが飛来しており、その証拠は日本各地の地名に残されていると主張したいらしい。
 H氏によれば根拠は地名の漢字にある。たとえば「口」という漢字はUFO一機、「只」は炎を噴射するUFO、「品」や「串」はUFOの編隊飛行をあらわしている。だから品川には昔UFOが降りたのだと、大真面目に説明する。ひょっとしたらその一帯はUFOの基地だったかも知れないとも言った。ぼくは笑い出しそうになるのを懸命にこらえながら話を聞いていた。
 途中、お茶を出しにきてくれた温和な感じの奥さんも、またお父さんの悪い病気が始ったというように苦笑いしていた。最後にH氏は、この原稿は近々出版の予定だが、版元がまだ決まっていないのだと憤懣やるかたない様子で言った。どうやらいくつかの出版社に声をかけたが、ていよく断られてしまったらしい。
 ぼくはH氏の壮挙の前途多難を思った。
 その後、しばらくしてH氏から一冊の私家版の著書が送られてきた。題名は『日本の地名とUFOの記録』。そうか、H氏も遂に積年の夢を果たせたのかと他人事ながら喜んだが、中は開いて見る気がしなかった。
 それから間もなく、SF翻訳家の柴野拓美氏にお会いする機会があった。SFファンならこの大長老の名はよくごぞんじだろうが、実は氏がUFO研究の草分けのひとりでもあったことは意外に知られていない。

CBA誕生

 一九五五年、荒井欣一によって日本最初のUFO研究団体「日本空飛ぶ円盤研究会」(JFSA)が設立された。氏はその最初期からメンバーに名を連ね、理論面を中心に活発な活動を展開した。その後、UFO研究仲間だった星新一らを誘って創刊したのが、日本最初のSF同人誌『宇宙塵』となるわけである。
 そんなことからH氏との出会いを話したぼくは、柴野氏の言葉に驚いた。
「H氏はCBAの大幹部だったんですよ」
 CBA……。その名はUFO関係者の間に古傷のように記憶されている。昔からのUFO研究者には、CBAか、と吐き捨てるように言う者が多い。逆に少数だが、CBAの活動を絶賛する声もある。反応にこれだけの差があることからも、彼らが当時のUFO関係者にいかに強烈なインパクトを与えたかがわかる。
 CBAの正式名称は「宇宙友好協会」(コスミック・ブラザーフッド・アソシエーション)といい、一九五七年に設立された日本でも最も早いUFO研究団体のひとつである。しかしCBAの名が記憶されているのは、単なる研究団体としてではない。大洪水による地球滅亡と宇宙連合による救済を唱える擬似宗教団体、すなわちUFO教団としてである。
 UFO研究団体は一般に、UFOの存在を科学的、実証的に研究しようという「科学派」と、UFOの存在を前提に異星人とのコミュニケーションを目指す「コンタクト派」とに大別される。JFSAや高梨純一の「近代宇宙旅行協会」(MFSA)などが前者の代表格で、CBAは後者の代表格である。
 初期の活動は際立って過激ということはなかったが、会誌に勇ましいスローガンを並べたり、政財界や文化人を取り込もうとしたりと、のちの騒動を予見させるものもあった。彼らの活動が急激に尖鋭化するのは、一九五九年半ば頃からである。のちに代表となる松村雄亮が異星人とのテレパシー・コンタクトや会見などを主張し始め、のちの「『地軸は傾く』騒動」の下地がつくられていく。
『地軸は傾く』とはアメリカのコンタクティー、レイとレクスのスタンフォード兄弟の著書である。兄弟はこの中で、近い将来に地軸(自転軸)が傾いて世界中に大洪水が起こり、地球上の生物の大半が死滅する。しかし目覚めた(“オープンマインドな”)少数の人間がUFOによって救済され、新しい世界を築くと予言していた。言ってみれば現代版「ノアの方舟」である。
 コンタクティーの鼻祖ジョージ・アダムスキーの流れを汲むスタンフォードは、この事実を宇宙人とのコンタクトによって知らされたとしていた。CBAのコンタクティー松村はことの真偽を直截宇宙人に問い、ほぼ事実だと確認したと主張した。ただ、スタンフォードの著書では一九六X年となっていた大災害の日時は、もっと差し迫っており、おそらく六〇年から六二年の間の可能性が高いとした。
 CBAはこの大災害をCと呼び、当初“カタストロフィー”の頭文字をとったものとしたが、のちには“チェンジ”の頭文字と訂正している。
 Cの予言採用から彼らの活動は一挙に加速することになる。それはそうだろう。何と言っても災厄の時は間近に迫っているのだから。
 CBAは会員に対して洪水の直前には暗号で通知が来るので、あらかじめ決められた集合場所に行けば、UFOによって救済されると説いた。これがマスコミに漏れて社会問題になった。結局、ハルマゲドンはなんども延期されたあげく、最終的に立ち消えになったが、この時の印象が余りに強烈だったため、CBAはUFOを 神と仰ぐUFO終末宗教として記憶されることになった。
 その後、教団は古代の地球に宇宙人が飛来し、進んだ科学技術を伝えたといういわゆる宇宙考古学路線に転向した。そして北海道にUFOを迎えるためのUFO公園を建設したのを最後に、十年に及ぶ活動は終焉を迎えるのである。
 一連の騒動について、当のCBAは一貫してマスコミのデッチ上げだと否定した。今となっては真相はやぶの中だが、この団体が一時期ハルマゲドンを掲げて急進的な活動を展開し、社会的にも大きな波紋を投げかけたことは否定できない。
 拙著(『ニコラ・テスラ未来伝説』)でもふれたが、ぼくはこのユニークな団体に少々思い入れがある。というのも、中学校時代に彼らの活動にかぶれた高校生に出会い、それがUFOに対する関心を喚起するきっかけとなったからである。
 まさか三〇年以上もたって、そのCBAの幹部に出会うとは。なにか因縁めいたものを感じながら、H氏の研究テーマはCBAの宇宙考古学路線を継承したのかと納得したものである。
 ちなみに、H氏の大著は最近ベストセラーになった『トンデモ本の世界』(洋泉社)でも、「偽史・超古代史本」の一冊として紹介されている。あのトンデモ本がF社のビジネス・ワープロで書かれたことを知っている者は少ないだろうが、こんなことは余り自慢にはならないか。

アダムスキーに始まる

 H氏との出会いは、青春時代の記憶を一挙に蘇らせた。これをよい機会と考えたぼくはCBAの活動を少し調べてみることにした。前出の荒井氏や柴野氏などにも話をうかがい、会誌や出版物も多少集めた。
 この方面の資料としては一九七〇年代の伝説的雑誌『地球ロマン』(絃映社)に載った詳細なレポートが有名である。そのほか、初めCBAの理解者だったが、のちに離反し、敵対したフランス文学者平野威馬雄の著作(『それでも円盤は飛ぶ』など)も参考になった。
 CBAの活動はその秘密主義や、短期間に活動内容が目まぐるしく変わったこともあってよくわからない部分が多い。それでも資料をもとに追ってみると、その活動はおおよそ三期に分かれることがわかる。
 第一期は、コンタクト派の鼻祖ジョージ・アダムスキーの影響下、UFOとのコミュニケーションを目指していた時期で、仮に「アダムスキー時代」と呼んでおこう。これは一九五七年の創立から五九年半ばまで続く。第二期は大洪水の到来とUFOによる救済を説いて、社会問題化した時代で、「ハルマゲドン時代」と名づけられるか。これは期間的には短く、体制を変えて出直す一九六〇年三月で終息する。そして第三期が、宇宙考古学路線へと転換し、一九六七年のUFO公園設立まで続く「宇宙考古学時代」である。
 これらの転回点には、偶然か意図的にか、アメリカで出版された三人のコンタクティーの著作物がかかわっている。第一期に影響を与えたのは、言うまでもなくアダムスキーの『空飛ぶ円盤実見記』と、その後編となる『空飛ぶ円盤同乗記』である。第二期は前出スタンフォードの『地軸は傾く』、そして第三期がウィリアムスンの『宇宙語、宇宙人』である。このうちアダムスキーのものは高文社から翻訳出版され、あとのふたつはCBA自身の手で刊行された。
 この中でも特に重要なのは、やはりアダムスキーの二著だろう。スタンフォードもウィリアムスンもアダムスキーの弟子、あるいは思想的後継者を自認しているし、大災害の予言も宇宙考古学路線も原型はアダムスキーの著作中に見られるからである。
 CBAの活動もまず、アダムスキー思想の移植に始まり、それをスタンフォードやウィリアムスンを借りながら過激化、徹底化するかたちで進んで行った。従って彼らを知るためには、まず、アダムスキーの著書を見ていかなければならない。
 一九四七年、アメリカの民間パイロット、ケネス・アーノルドが自家用機でワシントン州上空を飛行中、円盤型の飛行物体を目撃した。アーノルドはこれを手記に発表、一大センセーションを巻き起こした。ニュースは世界中に広まり、敗戦の傷癒えない日本にも伝わった。こののちロズウェル事件、マンテル大尉事件など、UFO史に刻まれる事件が相次いで起こった。
 それから五年後、パロマー山の近くに住む神秘思想家アダムスキーがカリフォルニア州モハベ砂漠で金星人オーソンと遭遇したと主張した。この体験は地元紙に掲載されたのち単行本(『空飛ぶ円盤実見記』)化され、全米に大反響を呼んだ。いわゆる「コンタクト・ストーリー」の走りである。
 アダムスキーによれば、それが起こったのは一九五二年一一月のことである。
 その日、アダムスキーは友人のウィリアムスン夫妻や弟子たちとともにカリフォルニア州の砂漠地帯にピクニックに出かけていた。この時、巨大な葉巻型のUFOが上空を横切るのを目撃したアダムスキーは、弟子たちに向かってこう叫んだ。
「だれか私を道路ぞいに車でつれて行ってくれ──早く! あの宇宙船は私を探しながら来たんだ。宇宙船を待たせたくないんだ!」
 未確認飛行物体を見て、自分を探しているにちがいないと思うとは、かなりの思い込みだが、それがコンタクティーのコンタクティーたるゆえんなのだろう。アダムスキーの思い込みはさらに激しく続く。彼はその巨大UFOを助手の運転する車で追跡しながら、早くもUFOの乗組員との遭遇を想像しただけでなく、UFOに乗って彼らの基地に向かうところまで夢想する。
 やがて車を降りたアダムスキーは仲間と別れ、ひとり砂漠にわけいった。そして遂にUFOの搭乗員と出会うのである。
「突然私の夢想は破られた。約四〇〇メートル前方の、二つの低い丘のあいだにある谷の入口の所に立っている一人の人間に注意を引かれたからだ。相手は近寄って来いと身振りで合図をした。一体だれなのか、どこから来たのだろう?……」
 砂漠で見知らぬ男に会えば、まず警戒心が起こるはずだが、声もかけずに接近を許す。これもオープンマインドのなせるわざなのだろうか。
 テレパシーとジェスチャーで男と会話をしたアダムスキーは、相手が金星から来たことを理解した。ほかにも円盤の動力は磁気の反発を利用していること、円盤は金星以外の惑星からも飛来していること、などがわかった。しばらく会話をかわしたのち、男は再び円盤に乗って去った。その後、ウィリアムスンが砂漠に残された金星人の足跡を石膏に取り、仲間とともにアダムスキーが会見を目撃した証人として誓約書にサインした。
 続いてその年の一二月、アダムスキーは彼らの乗ってきたUFOの撮影に成功する。これこそ今日、アダムスキー型円盤として知られるあの古典的デザインのUFOである。  翌年二月、アダムスキーは二度目の遭遇を経験する。この時は例の葉巻型母船に招待され、大気圏外から地球を眺めるという体験をした。
 会見はこれ以後も続き、その間、母船内で指導者(マスター)からさまざまな知識 を授けられる。月には大気があり、裏側には人間が暮らしていること、太陽系には一二個の惑星があり、全惑星に地球人類と同じような人類が住んでいること、そのような惑星は銀河のいたるところにあり、互いに自由に行き来していること──。このほかテレパシーの伝達法や地球の歴史、宇宙の法則などの知識も授けられたという。この体験に基づいて著書にしたのが続編の『空飛ぶ円盤同乗記』である。
 この大胆な主張に対しては、当然のごとく猛烈な反論が巻き起こった。

科学と非科学の間に

 アダムスキーの著書に対する最大の批判は、内容が非科学的だというものだった。たしかに彼の主張は当時の科学知識に照らしてもかなりの飛躍があった。
 たとえば、望遠鏡が頼りだった当時の観測技術でも金星が生物の生存にとって極めて厳しい環境であることは知られていた。厚い大気の層におおわれた気温数百度の星とされていたのである。火星も同様に大気が希薄で生存に適していないとされていた。他の惑星についてはいわずもがなである。
 もちろん、世界最初の人工衛星が打ち上げられるのはアダムスキーの手記発表から五年後のことであり、アメリカの金星探査機マリナーが金星観測を行うのは、さらにその五年後である。惑星生物の可能性に対する期待は今よりはるかに大きかった。
 だとしても、金星人が金星に大文明を築いているなどといった主張が、にわかに受け入れられるものではない。そのほか、月の重力は地球の六分の四だとか、天文学者ならずとも卒倒しそうな記述が並んでいる。もし本書の記述が事実だとすれば、現代の天文学の教科書は一〇〇パーセント書き改められなければならないだろう。
 テレパシーなどの超常現象も批判の対象となったが、こうした批判にはその後彼らなりの反論が用意されることになった。
 たとえばコンタクティーが持ち出す典型的な反論に、NASA、もしくは情報機関の隠蔽工作説がある。久保田八郎もダニエル・ロスの著書などを引用しながら、その背後には重大な隠蔽工作があると唱えている。
「アメリカのNASAあたりが金星の表面温度は摂氏四八〇度に達するので焦熱地獄であり、生物のかけらも存在しないと公表したために、アダムスキーの言っていることはすべて虚偽であったと決めつけたり、世紀のペテン師であるなどと吹聴する者が出てきた……」
「実際はNASAが金星に偉大な文明が存在することを知っていながら、それを隠しているのだということを、あらゆる角度から実証しているのである」
 ユダヤ陰謀論を待つまでもなく、陰謀を持ち出せばあらゆる事象にそれなりの説明をつけることは可能だ。こうしてアダムスキーに対する科学の側からの批判はつねに水かけ論に終わるのである。
 もうひとつの批判の論点は著者自身に対するものだった。有り体に言ってしまえば、アダムスキーは詐欺師だと非難されたのである。
 そもそもアダムスキーとはどのような人物だったのだろうか。残念ながら彼の経歴は、こうした神秘思想家の常として余り知られていないが、断片的な記述を寄せ集めるとおおよそ次のようになる。
 一八九一年、ポーランドに生まれたアダムスキーは、二歳の時に両親とともにアメリカに移住した。貧困のため高等教育は受けられなかったが、職を点々としながら独学。軍隊生活をへて神秘主義に傾斜、一九三〇年頃にはカリフォルニア州ラグナビーチで「ロイヤル・オーダー・オブ・チベット」という神秘哲学の教室を開いた。同じ頃、いくつかの神秘哲学的な著作を発表している。ラグナビーチに腰を落ち着けるまでのアダムスキーの動静はこれ以上わかっていない。
 父親はポーランド王室の一員だったとか、若い頃チベットで修行したとかいう伝説もあるが、確認されていない部分が多い。
 それはさておき、アダムスキーは一九四〇年にはパロマー天文台の近くに移住した。ここで秘書の保有しているドライブ・インを経営しながら、神秘哲学の講義を続けた。そのかたわら、弟子に寄贈された天体望遠鏡で宇宙の観測も続けている。
 もっとも天体望遠鏡は所持していたが、天文学の造詣はあまり深くなかったようだ。でなければ、金星人の知識と天文学の知識のギャップに悩んだはずである。
 結局、アダムスキーという人物に張る一番よいレッテルは神秘思想家だろう。こうした人物にはある種の作家的資質を持つ者が多い。実はアダムスキー批判のひとつに、なりそこねのSF作家説というのがある。これはSF雑誌編集者のレイ・パーマーが伝えた話とされているが、アダムスキーは彼の編集する雑誌に一編の長編小説を送りつけて来た。これは採用にならなかったが、彼の体験談はこの小説の焼き直しだというのである。
 アダムスキーの会見記を読むと、ほぼ彼の予測通り事実が進行しており、ここからもすべてがアダムスキーの創作ではないかという疑いをぬぐいえない。
 アダムスキーが撮影した円盤も、家庭用品を寄せ集めてつくった模型を撮影したものだという説があるが、これ以上の詮索は本稿の任ではない。興味のある方は、高倉克祐の好著『世界はこうしてだまされた』(悠飛社)やUFO研究家志水一夫の批判などを参考にしていただきたい。

地軸は傾く

 アダムスキーの著書がその後のUFO研究に与えた影響は大きい。UFO、イコール宇宙人の乗物というイメージはアダムスキーによってつくられたといっても過言ではない。CBAの活動はそのアダムスキー・ショックの余波としてスタートしたが、このことで彼らの活動は初めから他の研究団体と一線を画することになった。尊敬するアダムスキー氏がすでに宇宙の兄弟たちとコンタクトし、そのメッセージを聞いている。この期に及んで、今更存在の有無などを議論している場合か。われわれは彼らが指し示してくれた新世紀に向かって、それぞれの使命を果たすべきではないか。これがCBAのスタンスだった。
 といっても、最初はその新時代ももっぱら精神論的なものに過ぎなかった。それがにわかに現実味を帯びるようになるのは、やはりCの発表以降である。
 CBAの刊行資料(『CBAの歩み』)によれば、彼らがそれを言い出したのは一九五九年八月頃である。その数カ月前から松村雄亮はテレパシーによる宇宙人とのコンタクトを開始していたという。
 七月には横浜の某所で宇宙人と会見し、ここで地球の大変動が極めて近いこと、宇宙連合としては少しでも多くの地球人を救出したいと考えていることなどが告げられたのである。その後、UFOの母船にも招かれた松村はCBAのメンバーとともに地球救済の準備を託される。そして混乱を避けるために、計画はあくまでも秘密裏に運ばなければならないと注意されたという。
 八月になって、Cは選ばれたメンバーにだけ伝えられることになった。会合に集まった数十人のメンバーに対して、幹部がレイ・スタンフォードの訳書を示しながら、Cが間近に迫っていること、われわれはその準備をしなければならないことなどを説いて、団結と協力を促した。この頃、期日は一九六〇年から六二年の 間に設定されていた。
 CBAはレイ・スタンフォードをお墨付きにしようとしたが、実は地軸の傾斜にまつわる予言はアダムスキーの著作中に出てくる。『空飛ぶ円盤同乗記』の最終章には、それが金星人オーソンとの対話形式で暗示的に述べられている。
「地球の傾きが今でもしだいに起こっているということを知れば、あなたの関心を引き起こすかもしれません。……この地球の傾きこそ私たちが絶えず行っている観測の一つの理由なのです」
 オーソンによれば、金星人の寿命は一千歳にもなるが、これは金星を取りまく厚い雲によって有害な放射線が遮られているからだという。もし、将来地球の自転軸が傾いて、海底が隆起し、水分が蒸発して厚い大気の層ができれば、われわれも金星人並みに寿命が伸びるだろう、と。
 これからすると地軸の傾斜は長い時間をかけた緩慢な変化であり、Cのようなカタストロフィックな災厄とは見なされていないことがわかる。スタンフォードの著作も基本的にこのアダムスキーの主張を借りている。ただアダムスキーと違うのは、「大規模な変動は恐らく一九六X年に発生し、小規模な変動はそれ以前にも突発する」かもしれないと期限を区切ったうえ、救済の方法を述べるなど、記述がより具体的になっている点である。

りんご送れ

 Cはその後も機密扱いとされたが、救済計画は着々と進められていったようだ。その年の暮、CBAの地方連絡員から出たCに関する文書は、救済の方法を具体的にしるした文書として話題になった。
 それによると、Cは地軸の急激な傾斜により起こる全地球的規模の大洪水である。これによって多くの生物が死滅し、陸と海は入れ代わり、新しい陸地では三年間は作物が育たない。しかし会員とその家族は、その前にUFOで飛来した宇宙の兄弟たちによって救出される。
 Cの期日は十日前に『「リンゴ送れ」シー』という電文等によって知らされる。その時は登山の用意をし、一週間分の食糧を持って、家族とともに指定の集合場所に行け。一週間前にはラジオ、テレビを初め、あらゆる報道機関を通じて、Cの到来が告げられる。その後、否定の報道がなされるが、最初の報道を信じて行動すれば一般人であっても救済される可能性が高い。救出された者は他の遊星で再教育を受け、地球に輝かしい黄金時代を築く……。
 なにやら一九五〇年代のSF映画を髣髴させるような終末のイメージである。ここではもう一人の洪水予言者であるアダム・D・バーバーの説なども取入れながら、スタンフォードのイメージがさらに強化され、尖鋭化されていることがわかる。
 CBA本部はのちにこの文書を一部ハネ上がり分子のしわざだと批判したが、実際に救済の準備を進めていたこと自体は否定しなかった。また、元会員の証言などから、同様の内容が会員の一部にも通知されていたことがわかっている。
 翌年一月には、これがサンケイ新聞に取り上げられて大問題になった。これを機に他の週刊誌や新聞も続々取り上げ、世界が終わるのなら試験を受けても仕方がないとボイコットする高校生や、遊ぶなら今のうちと、ご乱行に及んだ少女の話などが誌面を賑わした。教団に多額の寄付をした大企業幹部の存在が噂されたり、救済を願って田地田畑を売り払った地主の話なども伝えられた。その間、Cの期日も一九六〇年三月二一日、六月二一日、一一月二二日と先送りされていった。
 のちに『週刊文春』に掲載された記事によれば、Cを信じた会員は電報が今日来るか、明日来るかと考えて、夜もおちおち眠れなかったらしい。傑作なのは、CBAから会員に出されたという、のこぎりや薪割りを用意しろという指令である。円盤が松の木に降りる時に邪魔になるから、それで切れというのである。
 余りの反響の大きさにさすがのCBAも腰が引けたか、六〇年三月に騒動を幕引きするかたちで、久保田八郎を代表に新体制が発足した。その後、会内のボード派(西洋コックリさんを信じる一派)との権力闘争などもあったが、最終的に松村体制に落ち着く。
 ここまでの活動の経過を見ると、広報活動と秘密主義がないまぜになりながら、より過激な方向に進んでいったことがわかる。なぜ、彼らの活動はこれほど過激になったのだろうか。
 ひとつ考えられるのは出版物の宣伝である。前景気をあおるためにオーバーなことを言い、あげくに引っ込みがつかなくなることは、オカルト業界にはよくある話だ。自作自演のUFO版といったらよいだろうか。これは彼らが『地軸が傾く』の翻訳出版と相前後して、Cを言い出したことからも推測できる。だが、それ以上に大きな要素は、CBA内部における権力闘争だったろう。
 当時、会内でもっとも力があったのは、アダムスキー派の雄久保田八郎である。これを追い落とすためには、アダムスキー以上の何か強力な旗印が必要である。そこで松村はアダムスキーより急進的なスタンフォードを引っ張り出したのである。過激な主張のほうが集団における権力掌握に有利なのは、悲しいかな普遍の真理である。
 それを証すように、新体制発足後の松村は会誌で「CBAは必ずしもアダムスキーの支持団体ではありません」と明言している。
 関係者によれば、松村という人物はもともと目立ちたがり屋で、自分にカリスマ性を付与するためにさまざまなパフォーマンスを実行したらしい。他のメンバーに先駆けてテレパシー・コンタクトを宣言したのもその一環だったのだろう。権力を握ったのちの松村は、CBAを宇宙連合の代理機関と称し、新時代建設の先兵となるべく独裁的な体制を敷いた。
 この頃彼は自分のことを「サーティーン」様と呼ばせていたそうだが、不吉な数字をわざわざ名乗ることによってかえってカリスマ性を高めようとしたのだろうか。

路線転換

 松村体制下のCBAは宇宙考古学路線をひた走ることになる。
 宇宙考古学とはかつて地球上に飛来した宇宙人の痕跡を、古代の遺跡や遺品に探ろうというUFO研究の立場である。ピラミッドやスフィンクスなどの巨大建造物や、古代の地層などから発見されたいわゆる「オーパーツ」などがその証拠と考えられている。
 こうした路線転換の最大の眼目はハルマゲドンの失敗から、世間の目と会員の目をそらすことだったろう。未来が駄目なら過去があるというわけだが、現実に傷めつけられたものが過去のユートピアに逃れるというのはありがちなことである。
 路線転換にそった企画の第一弾はジョージ・ウィリアムスンの招聘だった。このアダムスキーの友人は、考古学の研究者だとか宇宙交信機の発明者だとかいう触れ込みだったが、アダムスキー以上に謎の多い人物だった。ただ、一九六一年に来日した時は、国内の遺跡を精力的に回り、CBAの宇宙考古学路線を決定づける役割を果たした。
 その後彼らは、熊本県の古墳を古代太陽帝国の遺 跡としてセレモニーを企画、これにクレームをつけた地元の教育委員会と激しく対立したりしたが、ハイライトはやはり北海道平取町のUFO公園の建設だろう。
 CBAは一九六三年ころから北海道に目を向け、アイヌ民族の神オキクルミカムイは古代日本列島に降り立った宇宙のブラザーだったとして、モニュメントを配した記念公園の建設を計画した。
 一九六四年、いよいよ建設に着手するや、松村自ら陣頭指揮をふるい、会員は全員手弁当で参加した。当時の会誌を見ると、「円盤・母船の見守って下さる中で、仕事が出来る幸せは、言葉では言い表せない。全力を出してがんばろう」とか「ハヨピラにひるがえる旗の下、全ての存亡を掛け、今後一連の大聖戦に臨むのみ」とかいった会員の熱いメッセージが並んでいて、そら恐ろしい感じさえする。その情熱を建設工事にぶつけたメンバーは突貫に次ぐ突貫で、またたく間に全工事を完成させてしまった。
 開園にあたっては町の有力者らを集めて盛大なセレモニーが催されたが、これで精力を使い果たしたのか、以後はCBAの活動は表舞台からは消えてしまう。この公園は今でもUFO関係者の間で時々話題になることがあるが、現在は管理する者もなく廃墟同然となっているとのことである。まさにつわものどもが夢のあとである。
 志水一夫氏によれば、松村雄亮は今でも時々海外のUFO雑誌に投稿したりしているそうである。現在は七〇歳近くなっているはずだが、あの騒動を今、どう思っているのだろうか。一度、話を聞いてみたい気もする。
 CBAの活動については、ウィリアムスンの講演を聴きにいった荒井欣一氏らをCBA側が排除しようとしてもめたいわゆる「朝日講堂事件」など、話題は尽きないが、今回はこれくらいにしておこう。

核時代の想像力とCBA

 CBAは世界のUFO研究史に残る特異な団体だったが、その活動の意味はUFO研究の内部だけから見ようとすると把握しきれない。
 UFOの話題が最初に盛り上がった一九四〇年代、五〇年代は、科学技術に対する失望と期待が交錯した時代だった。最大の失望は言うまでもなく第二次世界大戦と冷戦下の核開発競争である。人々は第三次世界大戦の恐怖を身近に感じ、科学者は核実験の禁止と世界連邦の結成を訴えたが、米ソという超大国を前にして無力感も強かった。
 一方、この時代は航空、宇宙分野の進歩がめざましかった。人間が乗った飛行機が初めて音速を突破した八年後には世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられた。当時、小中学校の校庭では人工衛星を見るために、子供たちが夜空を見上げる光景がよく見られたものである。そんな恐怖と期待が交錯した時代だからこそ、宇宙人の搭乗するUFOの飛来という物語もたやすく浸透していったのだろう。それどころか進化した宇宙人による宇宙連合や、核実験で汚染された地球の浄化と救済のドラマでさえ、一定の説得力をもったはずである。
 五〇年代はSF映画の黄金期と言われ、宇宙物や侵略物、破滅物の傑作が数多くつくられた。それも冷戦や核戦争の危機というテーマが根底にあったからこそ、リアリティを持ちえたはずである。
 そんな時代のムードに乗って、UFOもアダムスキーも一挙に日本に流れ込んで来たのだった。敗戦から間もなく、アメリカ幻想が今よりはるかに強かった当時の日本では、物語はさらにふくらむ要素を持っていた。地球の滅亡と救済を説くUFO運動団体はそうした時代状況の中で生まれたのである。
 当時、UFOに関心を寄せる文化人は質、量ともに現在をはるかに上回り、実際に活動に参加した者も少なくなかった。前出の平野威馬雄や北村小松、石黒敬七、徳川夢声、三島由紀夫、石原慎太郎、星新一、糸川英夫と並べて見ると、なかなか壮観である。三島由紀夫や半村良などはUFOをテーマにした小説をあらわしているし、『少年ケニア』の作者山川惣治のように、CBAに入会し、活動を擁護する者もいた。これも、彼らが新奇さという以上のある切実さをUFOにまつわる物語に感じたからだろう。
 たしかにCBAはUFO研究の鬼っ子だったし、実質的な被害を蒙った関係者も少なくなかった。一時は随伴したアダムスキー研究者たちにとっても、恥部として忘れたい存在なのかもしれない。しかしUFO研究の草創期には科学派とコンタクト派が協同して、核兵器廃絶と恒久平和を訴える「宇宙平和宣言」を出したこともあったのである。両者は同じ危機感を共有していたはずである。
 こうしたことを考えると、単に切り捨てたり、アメリカのトンデモ本が生み出したUFO騒動として笑い飛ばすだけではすまされないのではないだろうか。
 核時代という状況の中でその不安や危機意識を極限まで推し進め、あげく自己解体した団体、それがCBAだった。ここまで言うと過大評価かもしれないが、UFO思想やUFO運動という範疇で考えれば、これほど危険で、魅力的な存在もないのである。

 ※この文章は筆者が「歴史を変えた偽書」(ジャパンミックス、1996年)に書きおろした文章を加筆修正・掲載するものです。許可なく無断転載することは固くお断りします。
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