藤沢、その不思議を読み解く
                新戸雅章
藤沢は田舎である―― 。こう書くとたちまち藤沢市民から猛反発を食らうだろう。
 東京近郊で、東京の都会ブランドに唯一対抗できるのは、湘南ブランドだといってよい。その人気は自動車の湘南ナンバーの人気がなにより証明している。
 藤沢市はその湘南の中核都市だと多くの市民が自負している。それを田舎とはなんだ、この無礼者めが、というわけである。
 一般に湘南と呼ばれる海岸地域は、東は逗子、葉山から南は平塚、大磯くらいまでというのが通り相場である。たしかに藤沢はこの海岸地帯のほぼ中央に位置している。優越感のともなう都会意識を持ったとしても不思議ではないだろう。
 では、本当に藤沢は都会なのだろうか。どうもそうは思えないというのが、東京暮らしの五、六年を除けば、ほぼ四五年この地に暮らしているわたしの実感である。
 若い頃、東京の友人からよく「湘南ボーイ」と呼ばれた。わたしにそのイメージがないのをそうからかったわけで、むしろ田舎者という意味がこめられていた。そのあだ名に反発する反面、妙に納得させられるところもあった。その納得は少年の頃の記憶につながっている。
 地図を広げてみれば分かる通り、藤沢市の市域は南北に細長い。その南北のほぼ中央を小田急線藤沢線が貫き、東西を東海道線が分けている。東西のラインは中心からだいぶ南寄り、すなわち海岸寄りに位置する。わたしの少年時代、これが藤沢の都会と田舎を分ける分水嶺のように思えたものである。
 都会の藤沢とは、分水嶺の海側に位置する鵠沼の地である。お金持ちや文人墨客の住まう高級住宅地、別荘地として全国に知られている。そして田舎はわたしの生まれ育った山側の旧藤沢宿周辺である。
 今は商店も少なくなった旧藤沢宿だが、当時はまだ商業地としての活気を保っていた。だから普段は特に田舎を意識することはなかったのだが、折りにふれてそれを痛感させてくれる存在があった。その筆頭が鵠沼だった。
 中学校時代からの友人が、小学校の時に東海道線で差別されたという思い出話をしてくれたことがある。彼が通学していた山側の小学校には、鵠沼地区の一部が学区にはいっていた。それを受けて教師が鵠沼から通学する生徒を別荘のお坊ちゃん、その他を田舎者として差別したというのである。酷い話だが、その感覚はわかる。
 わたしにとっても東海道線の向こうは山の手であり、海からの光を浴びてつねに光り輝く存在だった。もっともそれはイメージの中の鵠沼にすぎず、実体はだいぶ違うことをのちに知ったが。
 湘南ボーイに田舎を意識させたくれるアイテムは鵠沼以外にもあった。それは東京からの転校生である。
 中学校時代にある転校生の家に遊びに行き、いかにも都会育ち風の上品なお母さんに紅茶とケーキを出されて、舞い上がってしまったことがあった。当時は我が家だけでなく、一般家庭で紅茶とケーキのおやつはなかったと思うが、ともかく田舎の中学生には強烈なコンプレックスになった。
 相模弁と呼ばれるかなりえぐい方言も、田舎を意識させてくれたアイテムのひとつである。
 一番はっきりしているのが、語尾につける「だべ」や「べえ」だった。「そうだべ」とか「行くべえ」という感じである。「おめえっち」(おまえたち)とか、「おらっち」(おれたち)とかいうのもあった。
 小学校の頃、自分の言葉づかいが標準語ではないことにはたと気づいて、懸命に直そうとした記憶がある。藤沢の北部のほうでは、いまだにこうした方言が残っているようだが、あの頃は市内全域にわたって田舎の要素が満載されていた。
 高度経済成長時代に突入し、湘南ライフラウンや湘南台がベッドタウンとして開発されるようになると、そんな田舎町も急速に都市化されていった。JR藤沢駅前の再開発によってデパートやスーパーが大挙して進出、ついには旧住民と新住民の人口比率も逆転してしまった。
「だべ」や「おめっち」のおじさん、おばさんが急に都会人のような気分になり、それまでになかった都市イメージも意識されるようになった。〈湘南の中核都市〉藤沢などという浮ついた標語が氾濫するようになったのもたしかこの頃だった。
 だが、藤沢は本当に都会化したのだろうか。どうもそうは思えないというのがわたしの実感である。そのことをつくづく感じさせられるのが、藤沢市民が密かに誇りにしていると思われる文化である。
 田舎者とは何か。それは単に田舎に住んでいる者を指すわけではない。私見によれば、田舎者とは、つねにアンテナを都会とかいう方向に向け、その情報収集に汲々としている者たちのことである。実際、東京人以上に原宿や渋谷の情報に詳しい地方在住者はいくらでもいる。つまり藤沢市民はこういう意味で田舎者なのである。
 藤沢は東京から電車で一時間という地理的条件のおかげで、たいていの都会文化を享受することができる。しかしこれは東京という文化デパートで買い物をしているだけで、別に文化を創造しているわけではない。東京に近いという地理的条件に依存して、文化的であるかのごとく錯覚しているにすぎない。そんな条件など、インターネット時代には崩壊しまっているというのに。
 この文化デパート的発想に対応しているのが、文化の呼び屋的発想である。出来合いのクラシック、オペラ、ミュージカル、ジャズ、歌舞伎、演劇などを、外国や東京から呼んでくる。藤沢で公演することに意味がないとは言わないが、それこそ東京や横浜で見られるものばかりである。  文化の呼び屋的発想に対立するのが、発展にはなにもつながらない。
 大いなる錯覚の上に成り立った文化都市藤沢。文化的イベントである「祭り」にもよくあらわれている。  藤沢市民祭のような何の個性も、おもしろみもない祭である。市民参加を謳う市民祭りが、外国人のサンバショーでお茶を濁していたのでは、文化都市の名が泣くというものである。  お隣の茅ヶ崎市は藤沢より人口が少ないが、大岡越前の遺徳を偲ぶ大岡祭や勇壮な浜降り祭といった由緒ある祭がある。平塚市には全国区の七夕がある。鎌倉にも流鏑馬がある。藤沢には匹敵する祭があるだろうか。
 藤沢に歴史や文化がなかったかといえば、もちろんそんなことはない。かつては遊行寺の門前町として発展し、江戸時代には東海道五十三次の宿駅として発展した。開山忌、藤祭があった。「ささら踊り」「鎌倉囃子」「踊り念仏」。伝統芸能もないわけではない。だが、この数十年、市民がそれを盛り立てていこうという姿勢に乏しい。それで文化都市などと自負してはいるのは。
 オリジナリティの欠如を加速させる。
 西欧にアンテナを張り続けているという点では日本人全体が田舎者だといってよいだろう  面から見るとこの中途半端な都会化と、都会意識が。  鵠沼文化人の数は多いかもしれない。この人たちは、東京に本拠地を置き、あるいは隠居している人たちである。中央ではそれなりの実績を挙げた人たちだが、基本的には東京や外国を向いており、東京に通勤するサラリーマンと意識は同じである。藤沢はあくまでも寝床にすぎないのである。
 彼らは藤沢の文化など余り真面目に考えたことはない。この場合、考えたということは、他にない藤沢の文化的オリジナリティについて、多少とも真剣に考察したことがあるという意味である。彼らの発想は内容は別にして、結局、すぐれたものを藤沢に呼んでくるという呼び屋的発想を出ない。いくら有能な芸術家や学者であっても、これでは藤沢文化の方向付けを期待するわけにはいかない。
 結局、藤沢市民が自分たちの頭で考えなければならないのである。ところが不思議なことに、その段になると、文化都市藤沢の文化的市民が急に自信喪失してしまう。まるで文化とは西欧や東京から降ってくるものらしい。その力はもっているのに。  その結果、田舎はなくなってしまったのだろうか。いや、どっこい田舎も生き残っている。たとえば中世からの歴史をとどめているような不思議の島、江ノ島。昔ながら海に生きる漁師、漁港。名刹遊行寺とその周辺の旧藤沢宿。そして一歩郊外に出れば緑豊かな田園風景が広がっている。〈BR〉  にもかかわらず、この二十年ほどの藤沢は、東京・横浜にばかり目を向け、鉄道沿線に落下傘降下した新興住宅地のような顔をしてきた。〈BR〉  しかしそのような都会性ばかり強調する町の見方はかなり一面的なのではないだろうか。むしろ、わずか七十平方キロ足らずの市域に、都会と田舎、現在と歴史が「幕の内弁当」のようにぎっちり詰め込まれている。この多様さこそ、藤沢の町の特徴であり、おもしろさではないかと思うのである。ところが肝心の藤沢市民が、そのことを余り意識している様子がないし、誇りに思う風もない。  町のイメージを変える必要があるだろう。  もっともわたし自身、そんな藤沢の町の姿に思い至ったのは、ごく最近のことだから大きなことはいえないが。〈BR〉  田舎と都会、歴史と未来が入り交じった藤沢、遊行舎誕生の地藤沢、このコラム(多分、連載)では、そんな藤沢の不思議を少しずつ発掘していけたらと思っている。〈BR〉  藤沢という田舎から発信する文化こそ、真の意味で21世紀の文化となるのではないだろうか。                (作家) (遊行舎通信に連載しているエッセーを書きなおしたものです)