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「1943年1月8日朝、彼の部屋をノックしたメイドに返事はなかった。……点滅するネオンサイン、轟音を立てる地下鉄、鳴り響くラジオ、何百万家庭の光と動力など、彼の偉大な貢献によって作られ、現代の電気時代のシンボルとなったものたちから隠されて、テスラは夜うちに死んだ。生まれたときと同じようにひっそりと……」(ケネス・スウェジー『ニコラ・テスラ』)
☆忘れられた天才
19世紀半ば、オーストリア帝国に生まれたセルビア人発明家ニコラ・テスラほど、謎と伝説に彩られた発明家はいない。「発明の天才」、「電気の天才」、「電気の魔術師」、「交流の父」……。彼を評価する科学者や技術者、科学史家からはおよそ考えられる限りの賛辞が送られている。
こうした評価は決して大袈裟なものではない。今日の電力システムが交流に基礎を置いていることはよく知られている。われわれは発電所から送られてくる交流電力を利用して照明を灯し、洗濯機や掃除機を動かし、工場の動力を稼働させているのである。テレビもパソコンもインターネットも、エネルギー源たる電力が存在しなければ機能を果たせないし、第一、工場に電力が供給されなければ部品や製品を生産することすらできない。
要するにわれわれが今日享受している電化生活は、交流電力によって支えられているといって過言ではない。この交流電力技術を確立するうえでテスラ以上の功労者はいなかった。
1882年、ブタペスト滞在中に回転磁界の原理を発見したテスラは、これに基づいて最初の実用的な交流モーター(二相誘導モーター)を完成させた。このモーターを三相以上に発展させ、発電機などの関連技術とあわせて体系化したのがテスラの多相交流システムである。
テスラの発明を真っ先に認めたのは、早くから交流技術に取り組んでいた起業家ジョージ・ウェスティングハウスである。ウェスティングハウスはテスラの特許を高額で購入、ここから交流配電網の拡大をめざす二人の同盟関係が始まった。この交流同盟軍に激しく対立したのが、直流による配電システムをすでに推進していた発明王エジソンとその支持者たちだった。両陣営の対立は技術者や企業家を巻き込んでほぼ十年近くにわたって続いた。
世に言う「電流戦争」である。
しかし、テスラのシステムが1893年のシカゴ万博で全面採用され、その後、有名なナイアガラ瀑布発電所にも採用されたことで、最終的に闘いは交流陣営の勝利に帰した。
交流システムを完成させたテスラはその後、電磁波の研究に向かい、ここからも数多くの画期的な発明や発見を生んだ。高周波高電圧を発生させるテスラ・コイル、電波を分離する同調回路技術、アンテナ -アース・システムなどは無線電信やラジオ放送の基盤技術となった。
こうした業績に基づいて1943年、アメリカ最高裁はラジオの発明者をマルコーニではなくテスラとする裁定を下した。
また高周波を照明に応用した放電照明システムは蛍光燈やネオンサインの先駆けとなり、マディソン・スクウェア・ガーデンで公開した無線操縦ボートは現代の「遠隔無線操縦技術」に道を開き、20世紀初頭に提案し、建設に挑んだ「世界ステム」は、ラジオや現在のワイヤレス給電に道を拓いた。
その功績は、ノーベル物理学賞の候補にのぼり、磁束密度をあらわす国際単位系にその名が採用されているからもわかるだろう。(1テスラが1万ガウス)
だが、その天才発明家も一般にはほとんど名を知られていない。実際、その知名度は第二の祖国米国でも決して高いとは言えず、日本ではさらに無名である。事情は専門家の間でも同様で、電気工学を学んだ学生が名前さえ知らない例は少なくない。
電球の発明者はエジソン、飛行機はライト兄弟、電話はグラハム・ベル。こうした発明史上の業績と発明家の名前は小学生でも知っている。電力システムや無線の発明が、重要性において飛行機や電話に劣らないことは言うまでもない。
では、その発明者の名がなぜこうも無名なのだろうか? これは科学史や技術史のみにとどまらず、大いなる歴史の謎といわざるをえない。
もっとも、テスラが日本で完全に無名であるというのは正確ではない。彼の名前がひんぱんに登場するメディアも存在するからだ。その媒体とは、いわゆるオカルト雑誌やオカルト本の類である。
ためしにオカルト雑誌のバックナンバーを漁ってみれば、テスラの名に巡り会うのはむずかしくない。しかしながら、ここでの彼の役回りは、天才発明家を通り越して完全なマッド・サイエンティストである。
晩年の不遇の中で完成させた発明は、世界に破滅をもたらす超破壊兵器だった。そのため、米ソをはじめ世界中の謀略機関、秘密組織がこれをねらって暗躍した。そんな類の伝説が元軍事関係者の証言などとともに、虚実まじえて語られてきた。
旧聞に属するが、冷戦まっただ中の1980年代、レーガン元大統領がSDI(戦略防衛構想)を提唱した際に、旧ソ連がテスラの秘密論文をもとに粒子ビーム兵器を開発しているという噂が流れた。噂の出所は複数の軍事関係者だったが、当該論文はテスラの死後、謀略機関が彼の私金庫から盗み出したものだとされた。
1995年には、オウム真理教の信者が、彼の論文を求めてベオグラードのテスラ博物館を訪れるという事件も起こった。後の調査で、彼らの目的がテスラの発明をハルマゲドン兵器に利用することにあったと分かった。
交流システムの完成者、無線とラジオの先駆者として電気工学最後の天才と称される偉人の名が、一方ではあらゆる怪しげな噂や陰謀と結びついている。この落差はいったい何に由来するのだろうか。
結論から先に言えば、それは光と影に彩られた彼の生涯の反映だった。電気の魔術師としてエジソン以上の天才をうたわれた発明家は、エネルギーと情報を自由に操る「世界システム」の実現に後半生をかけた。これが資金難から挫折すると、成功病に取りつかれたアメリカ社会は、たちまち詐欺師、落伍者のレッテルをはった。
栄光と悲惨、成功と挫折。天才にはつきものの変転を一面的に強調する議論が、テスラ像をゆがめ、正当な評価を奪ってきたのである。
しかし彼の人と業績を子細にたどれば、すべて含めてテスラはテスラだということがわかるはずである。そのためにも、まず彼の経歴を少し詳しく見ておこう。
☆バルカンの神童
テスラは1856年7月10日の深夜から翌日の早朝にかけて、現クロアチア共和国のクライナ地方に生をうけた。父親はセルビア正教会の司祭で、村の教養人として知られ、地元新聞などにもよく寄稿していた。一方、母親は読み書きこそできなかったが、記憶力にすぐれ、創意工夫にたけた聡明な女性だった。
この秀れた両親の血を受けて、テスラは幼いころから神童ぶりを発揮したと伝えられている。自伝によれば、最初の発明は五歳になる前につくった円盤型の水車だった。地方のギムナジウムに入学したテスラは成績優秀で、とくに数学は抜群だった。ギムナジウムを卒業したあとは、病気と放浪の数年を過ごしたが、やがてオーストリアのグラーツにある工科大学(工芸学校)に進んだ。
その二学年目、彼は物理の時間に「グラム機」という直流機械装置の実演を見た。この機械は発電機とモーターの両様の機能をもつ最新の機械だったが、モーターが回転すると、整流子とブラシの間でバチバチとすさまじい火花が飛んだ。
火花が出れば当然、エネルギーの損失が生じる。これはモーターが直流で駆動されているためだと見抜いたテスラは、交流で駆動するモーターの最初の発想をえた。
交流モーターのアイデアはテスラ以前にもあったが、技術的困難さから実用的なモーターを完成したものはいなかった。テスラは全身全霊をかけてこの問題に取り組んだが、解決の糸口はなかなか見出せなかった。
啓示が訪れたのは、最初の発想から五年あまりたった1882年冬のことである。当時、彼はブタペストの国営電話局に技師として勤務していたが、激務と交流モーター発想の手詰まりから精神的苦境に陥り、出社できないでいた。そんな姿を見かねた友人に誘われて、市内の公園に散策に出かけた。園内を歩きながら、大好きなゲーテの『ファウスト』の一節を暗唱していると、突然アイデアが閃光のように訪れた。
テスラは立ち止まり、そばに落ちていた木の枝で地面に図を描き、友人にこう言ったという。
「さあ、これがぼくのモーターだよ」
こうして彼の交流モーターは完成したのである。
テスラが発見した原理は「回転磁界」と呼ばれ、交流システムの基本原理となっている。これを応用した多相誘導モーターは今日、もっともポピュラーな交流モーターとして、大は工場の動力から、小は扇風機や洗濯機、エアコンのモーターにまで幅広く利用されている。
その後、テスラはエジソン社のヨーロッパ法人に勤務しながら、交流のアイデアを発展させていった。交流機の模型も製作してアイデアの正しさを確信した。しかし直流を信奉する会社の幹部たちがまるで関心を示さなかったので、あきらめて米国に渡ることに決めた。
☆エジソンのもとへ
今をときめく発明王に直接交流の優位を説き、その援助をえて、一挙に交流の実用化を進めようとしたのである。渡米したテスラは首尾よくエジソンの助手に採用され、やがて技術者としての能力を認められるようになった。しかしエジソンに交流の採用を働きかけるという当初の目論見は失敗に終わった。エジソンは直流信奉者だったうえに、すでに直流システムに大量の資本を投下してしまっていたからである。
大規模な発電や遠距離送電を考えると、直流より交流が優位であることはすでに指摘されていた。
電線で電気を送る場合、供給される電力の一部は電線の抵抗によって熱に転換されて失われてしまう。この損失の大きさは、電流の二乗と抵抗の積によってあらわされる。(電力損失P=I(二乗)×R)つまり電圧が一定の場合、電流を百倍にすれば、損失は一万倍に増えることになる。
電力は電圧と電流の積であらわされる(電力W=電流A×電圧V)から、損失を減らすには、できるだけ電圧を高くして相対的に電流を小さくすればよいことがわかる。しかし当時、直流システムには適当な変圧方法がなかったため、大電力を送るには電流を大きくするしかなく、その結果、損失も幾何級数的に大きくなってしまった。これが直流システムの抱える本質的な弱点だった。
過大な損失は、末端の急激な電圧降下を招くため、エジソンの発電機は最適電圧より少し高めに設定されていた。それでも送電距離は二、三キロがせいぜい。それ以上になると新たな発電所が必要で、これでは都市間や、山奥の発電所から都市への送電など不可能だった。
エジソンもハンデに気づかなかったわけではないが、それでも直流を選択したのは電球販売のため安定した電力供給を必要としており、技術的に未熟な交流に社運をかけられなかったからである。この時点ではその選択は必ずしも間違いだったわけではない。もし彼に非があったとすれば、交流の優位が確定してからも直流に固執した点だが、経営者の顔を持つ身であれば、いまさら方向転換などできなかったのだろう。しかしそのためにこそ新大陸に渡ってきたテスラからすれば、これは大きな挫折を意味した。
このままでは、なんのためにわざわざアメリカまで来たのかわからない。テスラはエジソンのもとを去る決意を固めた。
退社後は出資者をえてアーク燈製造会社を設立、交流システムを世に出す機会を待った。ビジネスは比較的順調だったが、まもなく会社が不況の波をかぶって倒産してしまった。テスラはやむなくニューヨークの日雇い労働者として、失意の一年を過ごさねばならなかった。
しかし一年後、新しい協力者をえてマンハッタンに研究所を設立、満を持して交流モーターと交流システムの製作に取り組んだ。すでに頭の中ですべての設計を終えていたテスラは、必要なシステムをたちまち完成させ、特許を取得した。
テスラの発明に注目した米国電気工学者協会(AIEE)は彼を講演に招き、その名声は決定的になった。
☆電流戦争
このときテスラのシステムの優秀さをいち早く見抜いたのが、ウェスティングハウス電気会社の創立者で発明家のジョージ・ウェスティングハウスだった。早くから交流システムの実用化に取り組んでいたウェスティングハウスは、このころエジソンのライバルとして急成長しつつあった。彼はテスラのシステムが交流陣営に勝利をもたらす鍵となることを見抜き、巨額の金で特許を買い取った。
ここから、送電システムをめぐって直流派と交流派のすさまじい闘いが始まる。この「電流戦争」は一般にウェスティングハウスとエジソンの戦いとして記述されることが多いが、真の対決者はテスラとエジソンだったのである。
両陣営の闘いはやがて、えげつない誹謗中傷合戦にまで発展した。直流を盲信するエジソンは狂ったように交流の危険性を喧伝しはじめた。
新聞記者を集め、その前でイヌやネコを交流発電機に近づけて感電死させたり、政治家を動かして、電気椅子に交流の採用を働きかけるといった卑劣な手段もとった。エジソンから見れば、テスラはかつての部下であり、意地でも引き下がるわけにはいかなかったのだろう。
これに対してテスラも、100万ボルトの高周波電流を体内に通すという過激なデモンストレーションで対抗した。使い方によっては交流も直流と同じく安全だと身をもって証明しようとしたのである。
だが、この泥仕合もシカゴの万国博覧会に交流システムが採用され、その後ナイアガラ瀑布発電所にも採用されたことで、最終的にテスラ陣営の勝利に帰した。
交流システムはテスラひとりの力で完成したわけではないが、彼の役割の大きさは次のような事実が証明しているだろう。
ナイアガラ瀑布発電所に採用された交流発電機のプレートには、その建造に必要な13件の特許が列記されていた。うち9件がテスラのものだった。
実際、誘導モーターや交流システムがテスラ・モーターやテスラ・システムの名で呼ばれないのは、きわめて不思議なことである。
☆電磁波の世界へ
テスラの交流システムに対する貢献については比較的よく知られているが、同時にマルコーニを上回る「無線の天才」でもあったことはあまり知られていない。
交流システムを完成させたのち、テスラの研究テーマは高周波、すなわち電磁波の分野に移行していった。
直接の刺激になったのは1886年のハインリッヒ・ヘルツの実験だった。それ以前、ジエームズ・クラーク・マックスウェルは、電磁作用は光と同じ速度で空間を横波として伝わること、光も電磁波の一種であることを理論的に予言していた。これを最初に実験的に証明したのがヘルツだった。
ヘルツの実験は世界中の研究者を刺激し、1890年代になるといっせいに無線の研究が開始された。その中で先陣を切ったのがテスラだった。
ヘルツの装置は火花放電と呼ばれる方法で電波を発生させていたが、この方式による電波は微弱で、安定的で持続的な電波の発生は望めなかった。
火花方式の限界に気づいたテスラは、新型の交流発電機を開発し、二〇キロヘルツという高周波を達成した。だが、発電機ではこれが限界だった。次にテスラが思いついたのは共振の原理の応用だった。
振動による共振が電気回路でも起こることは以前から知られていた。テスラはこれを応用して一次コイルと二次コイルを共振させ、高周波・高電圧をつくりだす変圧器を開発したのである。その結果、少ない電力で高い周波数を達成できるようになった。
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この種の高周波変圧器は現在、共振変圧器と呼ばれ、また発明者の名をとって「テスラコイル」」とも呼ばれている。草創期の無線機では発振回路にテスラコイルを利用するのが一般的だったが、その後、真空管にとって代わられた。
無線の第一線からは退いたテスラコイルだが、現在も「がいし」などの絶縁試験やステージ用の特殊照明、科学教材などに利用され、さらに小型のものが液晶の部品に使用されている。
高周波を応用したテスラの最初の発明は、照明に関するものだった。
彼が考案したのは、ガラス管に封入した低圧のガスを高周波で振動、放電させる、いわゆる放電照明で、蛍光燈やネオン管の先駆けとなるものだった。彼はネオン管で科学史上の偉人のイニシャルをかたどり、自らの講演ステージを飾ったが、これがネオンサインの始めとみなされている。
エジソンの白熱電球に対して、放電照明を考案するテスラ。こんなところにも、両者のライバル関係があったわけである。
この後、高周波を用いた無線の研究にのめり込んだテスラは、早くも1890年代初頭には大気上層の伝導層を利用する遠距離無線通信の構想を発表している。その発想の根拠はコンデンサー(蓄電器)とのアナロジーにあった。
コンデンサーとは二つの導体間に静電容量を貯え、コイルや抵抗とともに電気回路を構成する部品である。テスラは導体である地球は、大気の絶縁層、上層のイオン化層と相まって、巨大なコンデンサーを形成していると考えた。この「地球コンデンサー」に高周波の電流を送り込んでやれば、電極間の静電的なバランスが崩れて上層に電磁波が誘導される。あとはこの電磁波に情報を載せればよいわけである。
こうした伝導層の存在を最初に予言したのは、英国の高名な物理学者ケルヴィン卿だとされているが、実際の通信に利用しようとしたのはテスラが最初だった。
当時、無線電信の技術はまだ薄明の中にあり、近距離の無線通信にすらだれも成功していなかった。まして遠距離通信など思いもよらなかっただろう。そんな時期にテスラは遠距離通信の可能性を確信し、ただひとり未踏の荒野に挑んでいったのである。 1893年には講演のステージに無線装置を設置し、近距離の送受信実験に成功するまでになった。その後、研究所の火災で一時研究を中断させられたが、97年には船に小型の無線機を積んでハドソン川をさかのぼらせ、マンハッタンの研究所の装置との間で交信に成功したと発表した。
さらにその翌年には、マディソン・スクェア・ガーデンで無線操縦ボートの公開実験を行い、一大センセーションを巻き起こした。これは水槽に浮かべた模型ボートを無線機でコントロールするもので、現代の遠隔無線操縦技術(ラジオコントロール)の先駆けとなるものだった。
こうした一連の研究によって、テスラは現代の研究者から無線電信やラジオ放送のパイオニアとして広く認められている。実際、電気工学史を溯って初期の無線機を調べてみれば、テスラの貢献がいかに大きかったは一目瞭然だろう。
☆「世界システム」の夢
幾度かの挫折はあったが、ここまでのテスラの発明人生は比較的順調だった。交流システムと高周波の業績によって「電気の天才」の名は、米国からヨーロッパ、いや、はるか極東の島国にまで鳴り響いていた。しかし次にテスラが挑んだテーマが少々問題だった。彼は情報だけでなく、エネルギーまでも無線で送ろうと考えたのである。
テスラの交流送配電システムがいかに優秀だとはいえ、世界中に電力を供給するためには次々に発電所をつくり、山奥や砂漠の町にまで送電線を引き回さなければならない。これは、はなはだしく効率が悪い。もし発電したエネルギーを無線で送ることができれば、コストを劇的に削減できるうえに、世界中の人達がすぐにでも電気の恩恵に浴せるだろう。このあたりは、いかにも理想主義者テスラらしい発想である。
この無線による電力の送電システムと情報の伝達システム、すなわち無線電信やラジオ放送を併せて、テスラは「世界システム」と呼んだ。
とはいえ、一体どうやって無線で電力が送れるのだろうか。これに関するテスラの理論は難解で、しかも途中で何度も修正されているため、ひとくちに説明するのは難しい。ただ出発点は、無線電信の場合と同じく、地球コンデンサーの発想にあったようだ。テスラ自身も無線技術について論じた1893年の講演で、無線電信とエネルギーの伝達は同じ原理で可能だと断じているからである。
この主張は原理的には間違っていない。ラジオ局やテレビ局から送られて来る電波は、それ自身エネルギーなのである。もちろんそのエネルギー量は電源とするには小さすぎるが、放送塔の周辺で豆ランプを灯すくらいなら可能である。
ちなみに無線の草創期においては、情報送信とエネルギー送信は思想的、技術的に明確に仕分けされていなかった。いや、エネルギーと情報だけでなく、無線電信、無線電話、ラジオ放送なども明確に区分されていなかった。草創期とは要するにそのようなものだろう。テスラは才能豊かな発明家として、そのすべてを徹底的に探求せずにはいられなかったのである。
しかし交流送電網の建設はそのころようやく着手さればかりだった。もし無線送電が実現すれば、それらがすべてご用済みになってしまう。これは事業を進めている電力会社ばかりか、背後にいる投資家たちにとっても死活問題だった。テスラにしても、自己の業績の否定につながりかねない極めて危険な賭けだった。
彼が並みの天才だったら過去の発明を後生大事に抱えて、栄光と賞賛に包まれた晩年を夢見たかもしれない。しかし幸か不幸かテスラは、そんなみみっちい処世術とは無縁だったのである。
☆コロラドスプリングズへ
1899年、テスラは自分の仮説を証明するために、ロッキー山脈の裾野コロラドスプリングスに実験施設を建設した。巨大なテスラ・コイルとアンテナーアースからなる発信機で三〇万ヘルツ、一億ボルトの電流を地中に送り込み、実際に地球が帯電しているかどうかを知ろうとしたのである。
実験は市の電力システムを破壊し、コロラドスプリングス一帯に大停電を引き起こすという華々しいクライマックスで幕を閉じた。この実験によってテスラは地球の帯電を確認し、さらに雷放電の観察から地球の定常波を発見したと信じた。
定常波とは、物理学でいう「波」の状態の一種で、一般に有限な大きさの媒質において、周波数の等しい二つ以上の波を重ねることで生まれる。このとき発生する波は、媒質の各部が振動するだけでまったく動いていないように見える。これが定常波である。
定常波は身近にはロープの一端を固定し、もう一端を手にもって、適当に揺することでつくることができる。テスラは自分が発見した定常波を、ロープの一端を雷放電、もう一端を地球の反対側として発生したものだと考えた。これをエネルギーの送電に利用すれば、きわめて損失の少ないエネルギー送電が可能だろう。
さらには、こうした定常波との共振を利用すれば大気圏を含むこの地球から無尽蔵のエネルギーを汲み取れるかもしれない。そうなれば送電線おろか、発電所さえ御用ずみにできるだろう。
実験を終えてニューヨークに帰還したテスラは、スポンサーを募る目的で雑誌に論文を発表、「世界システム」をはじめとする数々の未来技術に言及した。この論文を読んで感銘を受けたのが、大投資家J・P・モルガンだった。モルガンの後援をえて、テスラはいよいよ世界システムの実験施設建設に着手した。
用地として選ばれたのは、大西洋をにらむロングアイランド州ショーレムの浜だった。高さ60メートルの巨大アンテナを中心とする施設は、無線による情報サービスを発信する世界最初の無線電信局であり、無線電話局であり、ラジオ放送局でもあった。さらには情報とエネルギーの総合研究所であり、工場であり、いずれは世界最初の無線送電所や無限エネルギー発電所ともなるはずだった。
☆栄光と挫折
建設は順調に進んだが、あまりに壮大な計画に建設費がかさみ、途中、無線電信の分野でマルコーニの大西洋横断通信に先を越されたこともあって、塔が立ち上がったところで資金不足から中断を余儀なくされてしまった。その後無線送電に転換して再起をはかったが、モルガンからの援助を打ち切られたため、建設は完全に行き詰まってしまった。放棄された塔も第一次大戦中に破壊され、テスラの夢はあえなく潰え去ったのである。
世界システムに関しては、無線送電やエネルギー発生に焦点が当てられることで、失敗ばかりが誇張されてきたきらいがある。中には、ライバルたちによるためにする議論も混じっていただろう。実証的な研究の遅れがこうした事態に拍車をかけてきた。
テスラ博物館などを中心に世界システムの本格的な研究が始まったのは、ようやく1980年代以降のことである。その全体像が明かされ、正当な評価が下されるまでには、もう少し時間が必要だろう。
今のところ研究者は、テスラの目標のうち無線電信やラジオ放送は大いに有望だったと見ている。無線電信ではもともと実績があったわけだし、無線電話も、その数年後にテスラの高周波発電機の発展型を用いて実用化されている。これがのちのラジオ放送の基礎技術となるのである。
このことは、テスラとマルコーニの間で長年争われたラジオの発明をめぐる特許係争が、最終的にテスラの勝利に帰したことからも証明されるだろう。
しかし無線送電やエネルギー発生は、そのままのかたちでの実現はむずかしかったと見られている。テスラが発見した定常波は今日ではELF(極超長波)による「シューマン共鳴」として知られている現象で、特殊な軍事通信などへの応用も考えられている。しかし無線としては効率が悪く、通信はもちろん無線送電にも利用は困難だというのが研究者の評価である。
理論的にもエーテルの存在を前提としており、現代では異端の理論と見なされてもしかたない。もっとも弁護するわけではないが、アインシュタインが登場するまでは、当時の物理学者も同じ理論を等しく信じていたわけだから、テスラだけを責めるのは酷というものだろう。
世界システムの真実は、きわめて現実的な夢と未踏の夢をあわせもつ無限の可能性そのものだった。ある種のオカルティストたちのように、ありえない可能性ばかり引き出すのも考えものだが、それが20世紀の劈頭を飾る夢の記念碑だったことは改めて確認されてよい。
☆晩年とテスラ伝説
テスラはこれまで述べてきた以外にも、数多くの発明を行なった。
初期には高周波療法、X線装置、太陽熱発電システムなどがあり、「世界システム」の挫折以降も、高性能タービン、垂直離着陸機と、その発明意欲は衰えを知らなかった。 しかし晩年になるにつれ、無限エネルギー装置や粒子破壊兵器のような空想的アイデアも増え、それを新聞記者相手に飽きずに語るようになった。超兵器にまつわる数々の伝説は、おおむねこのころの新聞記事がもとになっている。
おそらくそれは理解者に恵まれず、研究費もままならない孤独と窮乏の代償でもあったのだろう。
1915年、テスラがエジソンとともにノーベル物理学賞の候補にのぼったという報道が流れたが、結局受賞には至らなかった。この理由については、テスラがライバルとの同時受賞を嫌ったためだとか、反対にエジソンが嫌ったのだとか諸説あるが、真偽のほどは定かではない。この後、1930年代にも同物理学賞の候補にのぼったが、やはり受賞には至らなかった。
気力、体力が衰えるとともにますます孤独感を深めたテスラは、ついにはハトを唯一の友とする完全な隠遁者になってしまった。
1943年1月7日の夜、発明家はニューヨークのホテルの一室で孤独な死を迎えた。翌朝、掃除に来たメイドに発見されるという寂しい死だった。
その死後、彼の秘蔵論文をめぐってFBIや空軍情報部が暗躍したという噂が長いこと消えなかった。近年、研究者の手によってこの一部が事実だったことが確認されている。
190センチを上回る長身でハンサムで億万長者。無敵の発明王エジソンを屈伏させ、ロイヤルソサイティ(英国王立学会)のお歴々を震憾させた「電気の天才」ーー。
彼がニューヨークの社交界で活躍していた三十代半ばには、あらゆる女性を振り向かせたものである。美貌のピアニスト、マルガリーテ・メリントン、モルガン財閥の三女でのちに社会運動家として活躍したアン・モルガン、親友の奥方キャサリーン・ジョンソン。ほかにもお熱をあげた女性は数知れない。
だが彼自身は女性にはあまり関心がなく、生涯独身を通した。当時、世界一の女優とうたわれたサラ・ベルナールの誘いさえ無視したというエピソードが残されている。
テスラをめぐる伝説は数限りなくあり、その業績もここに紹介したのはほんの一部でしかない。たとえば、彼は「火の玉」の研究者から火の玉の人工形成の先駆者と認められている。また、そのタービンはメンテナンスの容易な構造から、世界中の研究者によって今も実用化が模索されている。
彼が半生を捧げた無線送電も、IT機器や電気自動車への無線給電や、人工衛星で発電した電力を地上に送信する「太陽発電衛星」によって実現しつつある。
世紀の変わり目に生きたテスラは、電気工学の19世紀の完成者となり、電子工学の20世紀においても最大の予言者となった。その衝撃は21世紀になっても衰えることはない。
(新戸雅章)
※この文章は筆者が『禁断の超「歴史」「科学」』(新人物往来社)、『情報の天才』(光栄)、『知られざる天才二コラ・テスラ』(平凡社新書)などに書いたテスラの紹介文をもとに再構成したものです。
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